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建築家の「全て私がやりました」という風潮

建築学生の就活

ども、Tです。

建築家は世間に対して説明不足だと思うんですね。彼らは建築物を設計すると、「全部自分がやりました」って顔するでしょ?

本当は、建築家という存在は意匠設計を担当するだけで、設備設計や構造設計は別の専門家がいるのにね。

 

これまで発言力のある建築家は、「全て私が設計した建築です」というスタンスをとってきた。だから一般の方は、建築物はたった一人の建築家が設計していると思っている。

国家的なプロジェクトですら、建築家1人の力だと信じている。「そんなわけないじゃん」とTV越しの僕らは見ている。

何だかモヤモヤするわけです。もっと説明しなさいよ、と思うわけ。ということで今回は、建築家の「全て私がやりました」という風潮について考えていきます。下記も参考にご覧ください。

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構造設計者と設備設計者は悲しんでいるよ

建築は強・用・美の3要素から成り立つ。―ウィトルウィウス

現代的に言えば、「強」が建築物の構造のこと。「用」は建築物の室内環境のこと。「美」は建築物の外観のこと。

 

これら3つが無いと建築は成り立たない。建築家というのは、このうち「用」と「美」を担当します。

デザインや室内の空間は専門家ですが、建築物の構造については専門家ではありません。

ですから建築家が建築物を設計したとき、「この建築物の素晴らしい構造は全て私がやった」という顔をしないで欲しいのです。

 

「この構造はT構造設計事務所のTさんが構造設計をしました」、と言って欲しい。僕たち、構造屋や設備屋は悲しんでいるのよ。

「名前を出してもらえなかった。信頼関係なんてなかったのだな」と。

発言力のある建築家が、構造屋と設備屋の地位を下げた

建築業界の中で最も発言力のある人物。それが建築家です。

齢75歳を超えた建築家、安藤忠雄氏が、新国立競技場の音頭をとっている姿をみれば、そんな状況がわかるでしょう。

 

そんなマスコミに出演する煌びやかな建築家の姿とは裏腹に、構造設計者や設備設計者は影の存在です。脇役で黒子役。煌びやかな表舞台に出ることはありません。

それは、これまで建築家が構造屋と設備屋の存在を封じ込めてきたからです。安藤忠雄や伊藤豊雄氏もそう。インテリで、頭が良くて、彫刻家気取りの建築家が、僕たちの地位を下げたんです。

 

その反面、問題が起きたら僕たちは初めて表舞台に立つことになります。多分、建築家の説明はこうです。「この問題が起きた建築物の構造設計は、この構造設計者が担当しました。私は関係ありません。」

フェアじゃないですね。煌びやかな舞台は自分が総取り。処刑台は各担当者へ登らせる。これが建築家のやり方なんですよ。

仕組みを変えるか、建築家が変わるか

とはいえ、構造屋や設備屋の地位が低いのは、建築設計の仕組みそのものに問題がありますね。建築設計委託をまずは、意匠設計者である建築家が受ける。

そこから専門的な構造設計と設備設計は下請け(協力会社)として、建築家が発注をかける。つまりお金の流れが、

  • 施主⇒建築家⇒構造屋・設備屋

なんですね。この仕組みを変えない限り、中々僕たちの地位は上がりません。でもぶっちゃけ、中々既存の仕組みを変えるのは難儀だと思う。

 

だったら建築家が変わるしかない、と。彼らが構造屋・設備屋の名前を出して、彼らに協力してもらいましたって施主の前でいう。それだけで大分違う。

構造設計者が、構造設計事務所が世間に認知され始める。

「あぁ、そういう会社があったんだ」と思ってもらえる。

まとめ

  • 建築家が構造屋と設備屋の地位を落とした。
  • 建築家は「自分1人で設計をやりました」って顔はやめろ、下品だ。
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