図書館へ行き、気に入った本を手に取る。
(中々、面白そうだ)
そして、本を借りる。文章を熟読せず、斜め読みする。読みにくい、自分の理解が及ばない範囲は読み飛ばす。そして本を閉じて、読書した気になる。
以上が、昔、僕がやっていた本の読みだ。本を読む体力もつかなければ知識も増えない。ハッキリ言って悪手だと思う。「雑読」と呼ぶ。そんな反省があるから、今は読書の方法を変えている。
「乱読 兼 熟読」だ。この読書法は疲れる。目と神経、集中力を使う。そもそも本1冊を読むためには神経を研ぎ澄まさないと読めない。しかし効果は中々良い。読み終わった後、本の内容を覚えている。
1週間経っても忘れない。1年後はどうか分からないが、僕は文章として書評を残しているから、何となく知識として定着しているように思う。
しかし最近もっと効果的な読書法は無いか、と考えた。
筋力トレーニングは部位を意識すると良い
筋力トレに関する本を読んだときのことだ(いやテレビだったか・・・)。体の部位を意識して筋肉を使うと効果が全く違う、と言っていた。
そのことがやけに頭に残っていて、自転車に乗っている最中に、ふと思い出した。
(読書も同じではないか)
つまり意識の問題だ。頭をからっぽにして本を読む。すると読了した後に何か残っているだろうか? おそらく何も残っていない。僕が高校生のころ雑読していたのも、意識が問題だった。
考えてみれば当たり前だ。テニスを初心者から初める。ラケットの素振りを1日何千本とやったとしても、何が身に付くだろうか。テニスが上手くなるのか? ハッキリ言って疑問である。
それと同じで、読書も「乱読 兼 熟読」をしたからと言って、そこに「意識」が介在しなければ意味が無い。
危ない所だった。僕はまた読書の失敗を犯すところだったのだ。
読書をするとき、何を意識すれば良いのか?
では、読書をするとき何を意識すれば良いのだろう。1つは、本の内容についてで、本の内容を勘違いしないよう注意したい。例えば建設材料辞典という本を読むとしよう。
本書で最も重要なことは、「建設材料」のこと。当たり前だ。しかし「材料」のことに目が生きがちで、肝心の「建設にどう使われているのか」という視点を忘れてしまう。
ちょっと例えが違うかもしれないが、腕立て伏せをするときに間違って「腕」を意識してしまうに等しい。しかし、腕立て伏せの要は「胸筋」なのだ。このミスディレクションというか、思い違いで意識が別の視点へ向かうことは良くある。
そんな時役に立つのが筆者の「はじめに」だと思う。ここに何が伝えたいか、読んでもらいたいか、書いてある。
筆者の思いを無視してはいけません。
今年に入って50冊は本を読んだと思う。以上に書いた、読書の基本を忘れたくないものだ。